屋島の遍路道

 高松市の屋島小学校からまっすぐ北に行く道が84番札所、屋島寺への遍路道である。この道は良く整備された歩行者専用の県道である。途中に有名な「喰わずの梨」がある。「喰わずの梨」とは弘法大師が此処を通りかかった時、美味しそうな梨があったので近くにいた老女に「ひとつ分けてほしい」と頼んだところ老女は「この梨は固くて食べられない」と言って弘法大師に与えなかった。するとその梨は本当に固くなって食べられなくなったと言う話である。こういった弘法大師の説話は四国のいたる所にある。

屋島寺の境内へ入る階段の横に大正時代に建立された「香川県屋島村道路元標」がある。ここを起点に県庁までの距離を測っていたそうである。香川県には現存する物はほとんど無く此処と八栗寺南側、長尾寺南側の3箇所だけであろう。当時はお寺が起点になっていたことを思うと屋島寺が立派に見えて来るから不思議だ。

仁王門をくぐり四天門を抜けると本堂である。振り返って見ると今歩いて来た道が真っ直ぐ南に伸びている。「南面山屋島寺」という通り、本堂は真南に向いて建っている。

 参拝が済むと次は85番札所、八栗寺である。屋島寺から東へ行き「ホテル甚五郎」の南側に首無し地蔵が5体あるが、この地蔵から急坂を下って安徳神社まで真っ直ぐ東に伸びる道が遍路道である。この道は荒れていて雨の日は滑り易いので注意が必要である。

 安徳神社までの遍路道に地蔵道標がいくつかあるが、その距離を示す丁数がばらばらである事に気が付いた。地蔵を調べていると老婆が近寄って来て「死んだ祖父さんが若い時、村の青年団が夏祭りに力自慢をして地蔵を担いで山を登り降りしていたらしい」と教えてくれた。どうやら設置場所が変わっている地蔵が沢山あるらしい。また地蔵が製作されたのは享保11年(1726年)丙午(ひのえうま)が5基と多いが、それは(ひのえうま)の迷信のため厄除け目的で建立したのであろうか?

 安徳神社のすぐ西側には四国遍路で有名な「中務茂兵」の道標が立っている。「明治29年4月、149回目の供養」と記されている。今でも歩いて四国遍路をするのは大変な事なのに、当時は道路も悪く宿も整備されておらず149回も回るのは、さぞ大変であったろうと思う。(中務茂兵は大正11年、280度目の遍路中に76歳で亡くなった)

 ここから少し南へ歩くと源平合戦で戦死した「菊王丸」の墓がありその横に東を指さした「右八栗30丁」と書かれた道標がある。その指さした方向には海の向こうの五剣山の中腹に八栗寺が霞んで見える。初めはあれが八栗寺だと教えてくれている道標と思っていたが、調べが進む内に海を挟んだ対岸にも八栗寺への道標がある事が分かった。

 どうやらここが昔の海岸線でここから舟で対岸に渡った時期があったと推測される。なお現在の遍路道はここから少し南に行った所にある「高橋」を東に渡る道がそうである。

この橋を渡ると牟礼町である。渡ってすぐ「洲崎寺」に出る。丁度、寺の改修工事が行われており本堂から一枚の版画が出て来た。それは風景画でこの高橋も出てくるが名前が「見返り橋」となっている。江戸時代から明治時代にかけて「見返り橋」があったらしい。旅人はここで見返って屋島を眺め、見納めとしたのであろうか。洲崎寺の前にも中務茂兵の「明治28年143度目」の道標がある。

さらに洲崎寺の中に四国遍路の父と謳われた「真念上人」の墓がある。遍路道はここから八栗ケーブルの北側までくねくねと曲がっていて分かりにくい。
(この真念上人の墓はその後改修されて綺麗に整備されている。)

 曲がり角ごとに建っている道標の手形の指し示す方向に従って歩けば迷う事はないが、2ヶ所ほど埋まりかけているので注意が必要である。なお手形の入った道標は四国に多数残っているが、四国以外ではほとんど見た事がない。素朴な手形で道案内するのが四国
遍路の道標の特徴であると思う。

 また牟礼北小学校が遍路道の途中に遮る様に出来ているので運動場を迂回しなくてはいけない。運動場のすぐ東側には平成7年に建てられた道標がある。平成の年号の入った道標は香川県では平成15年12月現在十箇所確認されているが、この道標が第一号である。

牟礼町に入ると屋島と違って享保14年(1729年)の年号の地蔵道標が多く、理由は分からないが享保11年の年号の道標は一基も見当たらない。そして寛政12年(1800年)を境にそれよりも前は地蔵道標で、それ以降は角柱型道標となっている。地蔵道標から角柱型道標に変わったのは時代の変遷であろうか、理由は定かでない。細い遍路道を少し歩くと「うどんの山田屋」の前に出る。ここで腹ごしらえをしても良いだろう。

八栗ケーブルに沿って登って行くと坂の中腹に立派な振袖道標がある。文政7年(1824年)に高松の高橋さんが立てたと石に彫ってある。坂を登り詰めると、八栗寺の入り口にも「香川県牟禮村道路元標」が残っている。古い書物によるとここから県庁まで4里であったそうだ。(大正時代は玉藻公園の南に県庁があったらしい)この距離を基準に官吏の出張旅費などが支払われたとのことである。

八栗寺の参拝が済んで振り返って見ると屋島が向こうに霞んで見える。出発地点の屋島小学校まで今来た道を歩いて引き返しても十分日帰りが出来る。

 江戸、明治、大正、昭和、平成といろんな年代の道標が揃っているので散策しながら帰っても良いし、源平の古戦場を訪ねながら寄り道をして帰るのも楽しいだろう。(遍路道の近辺には源平の古戦場が多数点在する)

 疲れていれば電車に乗って帰る事も出来るので家族でハイキングをするのに最適なコースである。

平成15年12月 吉日

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