十九丁 打ちもどり (珍しい二つの道筋)

 五色台山上にあり、木漏れ日の中を歩く八十一番札所白峯寺から八十二番札所根香寺への遍路道は、江戸時代の風情を現代に伝える香川県では数少ない古道である。

 道中白峯寺から根香寺までの距離を示す丁石が当時のまま残されている。白峯寺の門前が五十丁(一丁は約百九メートル)で根香寺まで歩くにつれてその数がだんだんと減ってゆくように置かれている。その内、古田と呼ばれている四十丁と大きな地蔵がある十九丁の二カ所に八十番札所国分寺への道を示す道標が立っている。

 古田の道標は国分寺から白峯寺への札所を順番通りに回る、いわゆる順打ちの道順を表している道標である。一方、十九丁に建っている道標は、明治から大正時代にかけて四国遍路を二百八十回近く巡礼したことで有名な中務茂兵衛(なかつかさもへえ)の道標で、「百三拾七度目の供養の為、明治二十七年九月」と刻まれている。

この写真は四国遍路では珍しい「打ち戻り」を示す十九丁の道標である。

正面上部には「十九丁 打もどり」とある。これは白峯寺から根香寺まで打った後(札所を参拝することを打つと言う)十九丁まで引き返して国分寺へと向かう逆打ちの道順を示している。どうして打ち戻りという巡礼方法が採られるようになったのだろうか。

それは、国分寺と五色台山上の途中に「遍路ころがし」と呼ばれる急峻(きゅうしゅん)な坂があるが、この坂を避けるため先に五色台山上にある白峯寺、根香寺を回り、その後国分寺への逆打ちの道順が出来たと言われている。

十九丁にある地蔵の台座に一七九七年(寛政九年)の銘があることから、この頃から打ち戻りが行われるようになったと考えられる。

ところで平成の歩き遍路はどのような道順を歩いているのだろうか。

 国分台に旧陸軍(現自衛隊)の広大な実弾演習場が遍路道を遮(さえぎ)るように出来てからは国分寺から白峯寺への遍路道は通れなくなってしまった。そのため、国分寺から十九丁へ向かう途中の新「遍路ころがし」を登り、舗装された県道を西へ古田まで歩き古田から遍路道へ入って白峯寺へと歩く順打ちを歩いている。十九丁打ち戻りは採らずに第三の道筋を歩いているのである。

 四国の遍路道の中で時代と共に道順が何回も大きく変遷した個所は五色台以外には見当たらない。



  (四国遍路道 文責 森)


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