癒しの道 (急増する歩き遍路)

 日本がバブル経済に沸き返っていたころ、遍路道を歩く人はほとんどなく、道は荒れ果てていた。そのバブルがはじけ、経済不況が押し寄せて来た時、人々は一人、また一人と遍路道を歩き始めた。心の癒やしを求め、自分探しをする歩き遍路の再開である。

 徳島県鳴門市の一番札所霊山寺の納経所に「歩き遍路」だけが記帳出来るノートがある。住職の芳村超全(よしむらちようぜん)さんにお聞きしたところ、平成元年以降のノートが保存されていた。

グラフはその人数である。昭和五十年代、六十年代は歩き遍路の数は毎年百人程度で横ばいだったが、平成になってから急に増えている。

 庶民の手によって江戸時代から始まった丁石、道標の建立も戦後はばったりとやんでしまった。それがバブルの絶頂期に山間部の遍路道の一部は「四国のみち」として整備された。遍路道が役所の手で整備されたのは歴史上初めてのことであろう。

 雲辺寺や五色台は遍路道が四国のみちとして指定されているので多くの遍路やハイカーが歩いている。

 しかし高松市屋島東町の遍路道は四国のみちに指定されなかったため荒れ果てて通る遍路もほとんどいなくなってしまった。

最近になって屋島東町遍路道保存会の尽力により遍路道は整備され、徐々に歩き遍路も見かけるようになってきた。

  時代は昭和から平成へと移り変わった。現在は車中心の社会だが、最近遍路道は見直され、歩き遍路が増え始めた。歩き遍路が増えるのと時を同じくして平成になって道標の建立が始まった。平成七年に八栗道に一基建立されたのが最初で、平成十四年には真新しい道標が国分寺から白峯寺へ向かう五色台に二基、長尾寺から大窪寺へ向かう女体山越えの四国のみちに四基見受けられた。

県下には平成の道標が十基ほど建てられているが、これらは遍路道に思いを寄せる人たちの手で建立されたもので、実に半世紀ぶりの道標建立の再開といえよう。

最近は遍路道を歩いていると真新しい道標に出会う喜びが増えた。

(四国遍路道 文責 森)


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