屋島の遍路道と道標

 高松市の屋島近辺には素朴な道標が今も沢山残されています。
 この道標は春日川のほとりに建てられていて、角柱型道標の上にお地蔵さんが乗っている珍しいものです。たぶん後世の人が載せた物と思いますが、ここ以外では見たことがありません。またこの道標には台座がついていて瓢箪と水差しと思えるえものが彫られていました。
 正面には人差し指の手形の案内で「右やしま寺」と刻まれていて屋島寺の方角が分かり易く示されています。右側面には享保三年(1718年)と刻まれていましたが、地蔵の年代は分かりませんでした。

 この道標は新川のほとりに建てられています。手の平全体で方角を示しており「やしま」と刻まれています。手の方向を見ると屋島の遍路道が目の前に見えています。建立年代については風化が激しくて読めませんでした。
 このように四国の遍路道の道標の特徴は手の平(指)で方角を示す素朴なものが多いように思います。四国以外では手型の刻まれた道標を見つけるのは困難で、熊野古道で一個見つけただけです。他の古道では見つけることが出来なかったです。
(見かけられた方は是非教えて下さい。)

 屋島西町の遍路道は香川県では珍しい歩行者専用の県道なのです。石畳が施されていますが雨の日はすべり易いので注意が必要です。


  これは道標とは呼べないかも知れませんが、屋島の遍路道の中腹に建てられています。近くにあった手頃な形をした石に彫っただけの素朴なもので自然石型と呼ばれています。碑文には「南無阿弥陀仏」と刻まれていますがそれ以外の文字は刻まれていませんでした。矢印で屋島の方向を指しているようにも見えましたが、、、。
(矢印だけでは道標とは呼ばないかも知れませんね。)

 屋島山上へは有料道路を利用すると車で上がれるので、ほとんどのお遍路さんはバスで参拝しています。屋島ケーブルが廃止になったので、今では昔ながらの遍路道を歩いて登るか車で行くしか方法が無くなったのです。

 春と秋の遍路シーズンには大勢のお遍路さんで賑わいます。この写真は霊巌茶屋から北嶺を望んだものです。

 この道標は屋島寺の四天門の横に建てられているもので非常に立派なものです。
 右側には「是より一之宮江百五拾丁」と刻まれています。一丁が百九メートルですので16kmあまりになります。住職さんに聞いてみましたがこの道標は以前から屋島寺に建てられていたそうなので移設されて距離が変わったものではないようです。当時の遍路道は一宮から高野山讃岐別院をお参りしてから屋島寺へ行く道順と、仏生山の法然寺を廻る道順と、直に屋島寺へ行く道順の三ルートが有ったらしいのですが、江戸時代のお遍路さんは遠回りをするのが好きだったのでしょうか?高野山讃岐別院を廻りますと16キロあまりになるようです。
 左側には「是よ里やく里江三拾五丁」と刻まれています。ここから八栗まで歩いて4キロくらいありますのでこんなものでしょうか?途中船で渡りますともっと短くなりますが、、、。

 屋島寺からの下りは遍路道が整備されていなくて江戸時代の石段が遺されています。でもかなり荒れていて雨の日は歩くのが危険な状態です。

 この下りの遍路道には「享保11年(1726年)丙午(ひのえうま)と刻まれた地蔵丁石が5基と多く見受けられました。ひのえうまの迷信のために建てられたのでしょうか?
 理由は分かりませんが牟礼町に入ると享保11年の地蔵丁石は一基も見られず、享保14年の地蔵丁石が多く見られました。
 なお屋島東町に設置されている地蔵丁石はその距離を示す丁数がばらばらなので、設置場所が移動されたものが多いと思いました。

 これは屋島東町の遍路道の現況です。屋島西町と比べて整備されていないので雨の日はぬかるんで歩き難いと感じました。しかし江戸時代の風情を醸し出しているのではないかと思います。

 これは近くの庵治石に彫ったと思われる素朴な形をした道標です。正面には「弘法大師」、右側面には「へんろ道」、左側面には「アワ益田」と書かれています。徳島県の益田さんが建立したものでしょうか? この道標も自然石型と呼んでも良いと思いますが、四国の遍路道にはこの様な素朴な形をした石の道標が多く見受けられます。「南無阿弥陀仏」とか「弘法大師」とか刻まれている場合が多いと思います。

 これは最近建てられた道標でステンレス製の頑丈なものでした。きっと酸性雨の影響も受けずに後世にまで生き残ることでしょう。
 江戸時代に建立された石の道標は酸性雨の影響かその碑文が読み難くなりつつあるように思えました。


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